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40代女性会員~大学無事卒業~

更新日:2018年10月7日

パニック障害を抱えながらもこの春に無事大学を卒業されたお話を聴きました。 発作など数々の困難を乗り越え無事卒業された話に感銘を受け、「ぜひ体験談を書いて頂きたい」とお願いしたところ快く引き受けてもらえましたのでここに掲載いたします。

~ はじめに ~《 パニック障害になって 》 徐々に自分の身体の変化に気づきはじめたその頃の私は、やむを得ず病院へ行くために欠勤が多くなり、職場の人たちに迷惑をかけている自分に負い目を感じながら仕事をしていました。精神的にも肉体的にもその頃は毎日が『今日1日が無事に終わった・・・』というような、綱渡りにも似た生活を送っていたことが今でも時折想い出します。なかなか体調が良くならず、医師や家族と相談をして、大好きな職場を自ら離れることにしました。自分にとっては大好きな仕事をしているという喜びを感じながら勤務していたので、決心がつくまでにかなりの時間がかかりました。職場に自分の病名はもちろん言うことなどできずに辞めたので、みんな“どこが悪いのだろう?”と不思議がっていたと思います。何科にかかっているか、何という病気なのかなど、決して誰にも言わないで退職しました。

《 このままでは終わりたくない 》 今までずっと仕事をしてきた自分が、毎日家にいる。それも午前中は寝てばかり、いや、午前中どころか1日中寝てばかりの日もありました。起きたくても、家事をしたくても何故かできないのです。身体が動かないのです。そして、いつ発作が起こるか不安で外に行けなくなっていました。そんな自分になってしまったことが悔しくて悲しくて、仕事を辞めてから毎日自分を責めていました。情けない気持ち・家族に申し訳ない気持ちで心のどこかで自分の身の置き場がないような、今考えてみても、何といっていいか分からない日々が続きました。毎日のように泣いていました。この苦しみの中で、いつまで、もがき続けなければならないのだろうか・・・。気が遠くなるような辛い日々でした。 1年半以上経ったある時、ふと自分の頭の中である考えが浮かびました。それからの私は自分でも不思議なくらいに行動を起こしていました。それは昔からの夢でもありましたが、力不足で実現不可能だったある資格取得でした。短大を卒業後、働いていたのでその短大で取った単位がどれくらい認められるかが不安でしたが、編入学試験を受けて、運よく受かれば3年に編入学して頑張れば最短2年間でその資格取得と同時に大学を卒業できるかもしれない!と思い、気がついたらもう学校に電話で問い合わせをして相談している自分が、そこにいました。受験してみても、どうせ落ちるだろうと思って受けました。家族の反応も同じでした。でも、どうしても挑戦してみたくなり、夫に言ってみたところ『少しずつやる気が出てきた証拠だね。受けたいなら受けてみたら?』という返事でした。受験の当日だけは久しぶりに外出するということもあり、緊張していましたが、無事試験を受けて、3週間後通知が届きました。見てみると合格でした。その後の病院の予約日に担当医師に大学に行きたいのですがどう思いますか?と聞きました。大反対されました。『なぜ、今大学なんですか?・・行けるんですか? たとえば、来年とかでも病気が少し落ち着いてきてからでも考えたほうが良いのではないですか???』と・・・。私は途中で駄目になっても、それはすべて自分の責任において学校に入学するので、途中でやめなければならなくなってもそれはそれで諦めがつくけれど、このままで私はおわりたくないと言ってしまいました。このチャンスを逃したら一生後悔すると思うという事を言うと、医師は『あなたをこれまで診てきて、今大学に行くという事は医師としては反対です。でも、くれぐれも無理はしないでくださいね』と言われ続けて、それからずっと今まで見守っていただきました。

《 自分で選んだ“道” 》 大学に入ってから1ヶ月くらいしか経たないうちに、自分が入居したアパートの件で大家さんと壮絶なトラブルが起こってしまいました。アパートの管理会社の担当者と夜遅くまで話をしました。最初の契約とまったく違う内容・設備・さらに高額な家賃代金が口座から引かれていたことに気付き、大学の同じクラスで一人暮らしをしている人たちに聞いてみると私は知らなかったのですが、そこは悪徳な業者で有名だよ!と言われ、ショックでした。私が学校に通うために借りて一人で住みはじめているので、夫には頼らずに最後まで一人で大家・管理会社と話をつけました。ホッとしたときに体調が悪化し出し、一応入学してすぐに学校の保健室の先生にパニックの事を話しておいたので、アパートのトラブルがあったこと等を話した時に、保健室の先生は心配して『なぜ旦那さんにも話に入ってもらわなかったのぉ~!』と声を荒げていました。 たびたび講義中に突然発作が起きてしまい、周りの席の学生は驚いて泣き出す人達もいました。目の前で講義をしている先生も、もちろんびっくりさせてしまったことで、入学してすぐの前期の定期試験の直前に学長や学科長、その他3人程の先生方に呼び出された事があり、学業を続けて行くことは無理なのではないかと、問題になったことがありました。入学して学校生活にも慣れてきた頃でした。そういう病気で学校に迷惑がかかるから、やめて欲しいというのなら仕方がないことだと覚悟はできていました。しかし、自分からやめるという気持ちはその時は入ったばかりだった事もあり、どうにか学校を続けて行きたいという一心でした。そこで、保健室の先生が提案してくれたのが、私が普段通院している病院の担当医のところに保健室の先生と私とが一緒に行って、学校での様子を話したうえで、診断書を書いてもらってそれで学校側が判断するのはどうか・・・というものでした。その結果は、続けさせてもらえることになりましたが、それからの私にかなり過酷な生活が待っていることにその時点では、私自身も、誰も気付くはずもありませんでした。 レポート課題の提出する頻度が非常に多くて、パソコンに向かって一生懸命に取り組みました。結局朝になってしまうことはよくあることでした。1講義目から自分の受けている授業がある日は一睡もしていないものですから、フラフラな状態で学校に行きました。 そのうち、しだいに手(特に右手)が痛くなり、最初は湿布をしていたのですが、だんだん痛みが激痛に変わり、右腕全体が痛くて、いくら眠くても夜中に何度もその激しい痛みで目が覚めるほどの激痛でした。病院で診てもらったら、なんと「頚椎症性神経根症」と言われ、痛み止めの薬をもらい、痛み止めの点滴に通わなくてはならなくなりました。ブロック注射を打ったこともリハビリに4ヶ月通ったこともあり、少しは楽になってきました。しかし、今でも疲れると症状が出てきて、首につけるコルセットをしてパソコンを打ったりしています。実はつい先日ですが、これ以上、症状が悪化したら手術をしなければならないと言われました。その手術は6時間から8時間かかる大手術だという説明を受けて来ました。 学校内での私の存在は、時々発作を起こし、倒れるけど、普段は明るくて(無駄に明るい)面白い話ばかりしてる変な社会人の人・・といわれていたようです。同じ科目を取っている人たちには、いつのまにか「おねぇ」と呼ばれていました。男子学生のなかには 「アネサン」とか呼ぶ人もいました。“オバサン”とは呼ばせないわよ!みたいな威圧感でもあったのでしょうか?わかりませんが、一度もそういう呼び方をする人はいませんでした。私はクラスのみんなに沢山の事を学ばせてもらい、沢山助けてもらいました。 今の20歳から22歳くらいの人達はどういう考え方をしているのか、どのように未来を見据えているのか等語り合ったり、若い人たちの中で好きな勉強ができる事の喜びを感じていました。苦手な科目はみんなで教え合ったりしながら、同じ目標を持った者同士の仲間意識がしだいに強くなり、最後の頃ではみんなで助け合い、教室で会うと一人ひとりが『みんな全員で卒業しようね!』というのが自然と合言葉になっていました。(卒業式のあとの記念パーティーでクラスのみんなに言われた事ですが、唯一の社会人だったのもあると思いますが『昼休みなどはよく私達と冗談を言ったり、恋愛相談にも乗ってもらったり楽しい人だとは分かっていたけど、実はとても威圧感を感じていたんです!』と一人の学生が切り出した途端、数人が『そうそう・・・私も最初の頃はそう思った!』とか。

《 自分で選んだ道だから苦労などではない 》 この年齢で、しかもパニックで学校に通うという事は、もちろん楽しいことばかりではありませんでした。私はなんて考えが甘かったのだろうかと、思い知らされた2年間でした。 体調とうまく付き合うことができずに大変でしたし、最初の頃はなかなか周りの方に理解されずに苦しいなぁ~と思いましたが、これは自分が選んだ道なのだから、苦労でもなんでもない!!世の中には自分なんかよりもっと苦しい病と戦って前向きに生きている人達が数多くいるんだ!!!と言い聞かせて、自分自身を何とか奮い立たせてやってきました。それでも、定期試験期間に近づいてきた時は、普段はめったに飲まないコーヒーを連日飲んで眠ってしまわないようにして勉強しました。それでも眠気が出てきたときは、手の甲を自分で思いっ切りつねったり、針を刺したり、いろんな工夫をしました。コーヒーの飲みすぎで胃の具合いが悪くなったときは紅茶を飲むようにしたり、2年目になってからは少し要領がつかめるようになってきましたが、その反面、もの凄い不安が付きまとう毎日でした。 前にも増して何度も苦しい発作が起こるようになってきました。夏休み中の実習期間2日目に担当教員の前で恐れていた発作が起こってしまい、『自分の体調管理もできないのか?・・・具合いが悪いなら来るな!。今日は帰りなさい!!!』と怒鳴られました。2日目の不本意な出来事を何とかカバーすることが重要だと思い、次の日からは通常の実習生が出て行く時間よりも40分早く着いて、30分前に実習記録の記入やその日行う予定の準備を始めていました。やってしまった!と落ち込むよりも、ひたすら気持ちを切り替えるように努めました。 卒業論文のための準備は少しずつ始めていましたが、もうそろそろまとめたものをゼミの先生に一度提出するという時期が来たときも、何度か発作が起きながらも、誰にも悟られないように薬を飲みながら、講義が終わってから夜遅くまで図書館で調べものをしながら卒論を書いていきました。そのゼミの担当教授がこれまた厳しい方で、『学業を続けると決めたからには、病気といっても手を抜くな!』といつも言っていました。傍から見ても私に対して、ハードルが高くて非常に悩みました。そのゼミの先生は『僕の科目以外でも良い結果(成績)を取っているんだろうな』と試験が終わる度に私に言ってきました。しかし、最終段階の卒論締め切り2日前に、私は出来上がった卒論を提出したとき、その先生は私がそれまで見たことがない満面の笑顔で『よくやった!』と言ってくださったことが忘れられません。辛い時・苦しい時にいつも『頑張れ!とは言わない・・・やれることはやれ!』と私にとってはときには厳しい言葉ではありましたが、それはその先生独特の最高のエールだったことに気付きました。 筆入れの中にあることを書いた紙を入れていて、いつもそれを見て自分自身にカツを入れてきました。【今日を逃げずに立ち向かったら、明日は変わる・・必ず変わる☆】という言葉です。ひとりで部屋で勉強していて思いついた言葉でした。正直言うと、何度も学校をやめようと思ったかしれません。でも、その度に自ら書いたこの紙を取り出して、テンションをあげるようにしていきました。ここまで来たからにはやめるわけにはいかない・・・と。乗りかかった船から降りるわけにはいかない・・・と、ただ無我夢中でした。 何より辛かったのは、試験前夜に発作が起きることでした。最後の卒業認定試験のときも、やはり発作止めを最大量を飲んで挑みました。頭痛・めまい・下痢・脱力感・全身疲労が続きました。右腕の激痛もこらえました。痛み止めの副作用でからだが痒くて眠れない日々との闘いもありました。最後、自分はどうなるのだろう?と不安でしたが、とにかく、必死でした。卒業式の当日の朝も、発作が起きましたが、なんとか出席できました。本当に“山あり谷あり”の2年間でした。卒業できたこと・学位をいただけたことは大変嬉しく思います。 こうして、学校のご理解・周りの沢山の人達の協力を得て、無事に卒業することができました。私のような者が卒業と同時に目標であった資格を取得できたことは、奇跡だと思います。お世話になった方々皆さんに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。この2年間は、私の人生という大きな括りにおいても大変貴重な体験をさせていただけたと思っています。 大学で勉強するということは、自分の目標としている資格取得も大事なことではありますが、大学で学ぶことそのものは、問題解決能力を養うことでもあるのではないかと私は実感しました。

《 今、想うこと・・・ 》 約7年前、病気になってしまって“何故私が・・・?”と思い悩んだ日々もありましたが、パニックになって、はじめてわかったことも沢山あります。 卒業できて大変嬉しく思う反面、今は正直言って何とも言葉には言い表せない寂しさも感じているのも事実です。苦しい事も沢山あったけれど、それと同じ数ぐらいの楽しい事も味わうことができました。自分の弱さを見つめることができたとき、あらためて自分の周りの人々の究極の優しさを肌で感じました。さらに、自分自身の今までの生き方を振り返る機会を与えていただき、自分の人間としての未熟さに恥ずかしながら気付かせていただき、大変感謝しています。 これから生きていくうえでも、不安がないと言えば嘘になります。でも、思い通りにならない事を嘆くより、思いがけず与えられた数少なくてもうれしい出来事を、ただただ、素直に喜んで過ごしていけたらいいかなぁ~と思えるようになれました。

~ 最後に ~ これからも、パニック障害の自分を受け入れて生きていく生活は変わらないです。どんな事も、一瞬一瞬を大切に、そして、病気から学ぶことも出来るのだと、今生きていられる事に感謝したいです。

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