もともと飛行機は苦手だった。生まれつきの不安障害で、機内食やドリンクを出されても、まともに喉を通らない。
飛行機には苦い思い出があった。そんな私が、今年は飛行機に挑戦してみようと決心した。
夏休みの家族旅行。昔から南の島へ行くのが夢だった。
行き先も、少しハードルは高いけれど、まだ行った事のない石垣島にしよう。そう思い、ほぼ発売と同時に旅行会社に予約した。
しかし、予約した途端、もの凄い予期不安が私を襲った。本当に機内で2時間半も耐えれるのか?少し冒険し過ぎなのではないか。まずは手慣らしに、1時間半で行け、しかも南国気分も味わえる奄美大島辺りにしておいた方が無難なのでは。もし失敗したら二度と飛行機には乗れないような気がした。
考えた末、1ケ月後には行き先を奄美大島に変更した。すると、何か胸につかえていたものがスッと降りたように、気が楽になった。やはり心の負担だったようだ。
だが、ガイドブックを読んでいても、どうしても沖縄の事が頭を離れない。また予約を取り直し、行き先変更を繰り返し…旅行会社には迷惑を掛けてしまった。
結局は、最初から行きたかった石垣島に決めた。最後の最後まで迷った末の決断だった。
主治医に相談し、いつもより強めの薬(抗不安薬とβ遮断薬)を2種類処方して頂き、「皆これで乗れているから」「大丈夫!」という言葉が私の背中を押してくれた。
旅行会社では、何度も機材を確認した。何人乗りの飛行機なのか、揺れはどうか、配列はどうなっているのか、等…。
それでも図面を見るだけでは解りにくい。実際に自分の目で確かめる為、関空へ下見に行った。行き交う飛行機を目で確認しては、時刻表と照らし合わせ、どの機材かをチェックした。
自分が乗る予定の飛行機に近い機材を見た時、「あの位なら、たぶん乗れるだろうな」と確信した。なかまの会会員さんからの情報で、PDである事を航空会社に申告すれば、身障者向けの座席に変更が可能という事を予め聞いていた。関空に来たついでに、JALのカウンターで確認した。
「パニック障害なのですが、なるべく騒音のない前の方の席が良いので、現在取れている座席は変更可能ですか?」
「当日枠があれば変更できますよ。ただ、事前に旅行会社さんを通しておいて下さいね」
という事だった。
そこで旅行会社に私自身がPDである事を伝え、具体的にどういうケアをしたらいいかを聞かれた。 「もし発作が起きたら、水と袋と、酔い止めの薬を持って来て下さい。」、少しオーバーに言っておいた。「体をさすってもらったりすると落ち着くのですが、恐らく来てもらうだけで安心すると思います」、そう伝えた。 「解りました、航空会社に連絡しておきます」「お願いします」と電話を切った後、今まで必死に隠していた事をカミングアウトし適切な処置をしてもらえると聞き、安心しきってしまった。これで不安材料は半減した。今までの予期不安がウソのようだ。
前日の緊張感も差程なかった。当日は、早速JALのカウンターで座席変更の手続きをした。
PDである事を再度申告し、優先的に身障者向けの一番前の座席に変更できた。 「良かった!」これで安心して乗れる、あとは薬を飲むだけ。後はどうにでもなると思った。不安になると思い込んでいた事が、こんなにも安心感に繋がるのは何故だろう?
機内に乗り込んだ。一番前の座席は、前が広く空いていて荷物も置けるし、ゆったり座れる。スチュワーデスさんがにこやかに話し掛けてくれ、「何かあったらいつでも言って下さいね」と笑顔で接してくれた。 こんな扱いを受けたのは初めてだ。涙が出そうに嬉しかった。ホッとしたのか、いつの間にか機体は動き始め、飛行機は離陸した。 音楽を聴き、敢えて窓の外は見ないようにした。子供も飛行機が初めてなので、色々話して気を紛らわせた。想像していたよりも緊張感はない。 気圧が安定してきた頃、スチュワーデスさんが真っ先にお水を持って来てくれた。 まだ必要はなかったが、お礼を言って、とりあえず受け取った。ジュースも配られたが、チビチビしか飲めないのはいつもの事だ。 子供がトイレに行くというので席を立った。歩く事も、思った程怖くない。狭い化粧室も大丈夫だった。 ここまで来ると、ほぼクリアに近い。ガイドブックを開き、夫とあれこれ現地での行き先を話し合った。 もう旅は既に始まっていた。頭の中は飛行機ではなく、石垣島でいっぱいになった。
そうこうしてるうちに沖縄上空からしばらくして、着陸体制へ。もうあと30分か、意外と早かったな、というその時!真っ青な海原が、眼下に広がったのだ。何と美しい…息を飲む程の鮮やかなブルー。今まで窓の外は怖くて見れなかったのだが、逆に窓の景色から目が離せなくなってしまった。これぞ夢にまで見た光景―やっと夢の楽園に来たのだ!
PD歴9年、発症時は発作で苦しみ、時には死ぬ事さえ頭をよぎった事もあったが、あの時死ななくて本当によかった。 もしあの時命を絶っていたら、こんなに素晴らしい景色と、筆舌に尽くしがたい感動には巡り合えなかった。生きていて、よかった―――
数年前までは、電車にすら乗る事ができなかった。発作と闘いながら、ひと駅乗るのが必死だったあの頃。もどかしい日々。だが今まさに、自分が沖縄の、しかも石垣島に辿り着こうとしている。私はずっと此処に来る事を夢見ていた。いつになったら行けるのだろうと、悶々とした生活を送ってきたが、信じていれば夢は必ず実現するような気がした。
機体が無事着陸した時、子供と手を取り合って喜んだ。 「着いた~!」降りた瞬間、モワッとした南国の懐かしい空気。まるでサトウキビ畑やハイビスカスが歓迎してくれているかのよう。 空港で夫が記念写真を撮ってくれた。言うまでもなく満面の笑みだ。海風も心地よく、早速ビーチへ。シーカヤックにシュノーケリング。 瑠璃色の熱帯魚は美しく、八重山そばも美味しかった。さらに離島へ!船で竹富島へ足を延ばした。高速船でわずか10分。だが、船は10分が限界だった。船を降りると、そこは異国情緒あふれる地。水牛車に乗って、赤瓦の屋根とブーゲンビリアが咲き乱れる街をのんびり観光。 途中でオジサンが、三線の演奏に合わせてユンタ(民謡)を唄う。至る処に神社が祀られ、神々の島である事を知った。石垣島ではレンタカーで島を一周し、見晴らしの良い展望台からは、深い碧、水色、エメラルドグリーン…と様々なグラデーションを描く海が見えた。 幸せを感じる瞬間だった。海に沈みゆくオレンジ色の夕陽も美しい。やはり南国は癒されるのだ。
楽しかった思い出を胸に、石垣島を後にした。帰路は乗り継ぎ便の那覇経由で、計3時間のフライトだ。往きと同様、PD申告で一番前に座席変更をしてもらえた。旅行会社が予め押さえてくれていたようだ。
空港では真っ先に呼び出しがかかり、搭乗口までも身障者の方と一緒に空いたバスでゆったりと移動できた。離陸直前に空弁をかき込み、それでもスチュワーデスさんは「いいですよ、いいですよ」と優しく労ってくれた。 家族以外にも理解してもらえているという安心感が、こんなにも有り難いものなのかと、ひしひしと実感した。帰りはパンをチビチビ噛りながらだったが、無事に関空に到着した。「良かったな」と、夫も笑顔で喜んでくれた。
初めての飛行機への挑戦は、まさに案ずるよりも産むが易しといった感じだった。 いつもより強い薬を服用したせいもあったかも知れないが、不安を軽減できたのは、PDが航空業界に認知されているという事がかなり大きかったように思う。 ある意味ラッキーな病気だ。PDである事をカウンターで申告すれば身障者向けの座席に変更できるという、貴重な情報を教えて頂いたSさんには心から感謝している。 この場をお借りして改めて御礼を申し上げたい。 また、なかまの会に入っていなければこんな情報を知り得る事はなかった―。それを思えば、会に対しても感謝の気持ちて胸がいっぱいだ。
たくさんの方々に支えられた旅。このご恩を決して忘れずに、これからも挑戦し続け、生き抜いていこうと思う。
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